『ごきげんになれる癒しカフェ』へようこそ
アラフィフのみつはです。
普段は主婦をしています。
幼少期から母親に「ブス」と毎日言われ
小学生の時には性被害にあい、
やっと出会えた夫にも罵倒され子どもも大荒れ。
「自分は価値のない人間だ」
「いなくなりたい」
と天を仰いでしまったほど
「なす術なし」の状態でした。
それが今やなんでも
「ごきげん」に
自分をコントロールできるようになり
母や夫、子どもとの関係も
心晴れやかな関係に変わったのです。
あなたも
・母との関係がうまくいかない
・マルチタスクの主婦業が苦痛
・子育てに不安がある
・夫との関係がこじれてめんどくさい
と思っていませんか?
このブログで紹介している
「あること」実践すれば
全て解決します。
生きづらさから解放され
自分らしくごきげんになりたい方へ
ぜひ最後までついてきてください。
私は小さい頃から音楽を
演奏する生活をしていたため、
集中したり没頭したりすることが得意でした。
でも洗濯・食事・掃除に子どもの送り迎え、
さらには夫への気遣いや
ママ友とのコミュニケーションなど
マルチタスクの
「主婦業」は本当に苦手です。
毎日が私のキャパシティー超えの
ハードルを「跳べ!超えろ!」と
鬼コーチが隣にいて
怒られているような生活でした。
仕事から帰ってきた夫には「部屋が汚い!」「洗い物が残ってる」
「子供がうるさい」「子供がだめなのは、みつはのせいだ」
と言われる毎日。
追い立てられ小心者の私は、
だんだん体力が無くなり、
気合も薄れ、
「なぜハードルを超える練習をしないといけないのか?」
すら分からなくなっていったのです。
しまいには朝起きること、
食べること、
寝る事すべてができなくなってしまいました。
それでも世界は回ります。
私の周りで世界が超高速回転しているのが
分かるのですが、
自分はその回転についていけず目が回る感覚。
そして本当に
「めまい」が起き
「自律神経失調症」と「うつ」
を患いました。
病院でいくつかの薬が出されて、
「これで楽になれる」
と期待したのも束の間。
いざ薬を服用すると
なおさら気持ち悪くなったり、
完全に逆効果。
症状が悪化してしまったので、
もうお先真っ暗・・・と
「なす術なし」の奈落に突き落とされました。
そんな心も体も停止し
だめだめだった私が
今では毎日朝起きるのが楽しくて
目覚まし時計いらずの
『ごきげん』を取り戻した実録です。
1杯のお茶を準備してゆっくりお読みください。
母に「ブス」と呼ばれ続け、何も言えないみつは
(↑3歳のみつはです)
私が物心ついた頃には母から
「あんたはバカで、ブスだ」
「何を着ても可愛くない」
「私は綺麗だったけれど、私に似なかった」
と毎日容姿を侮辱してきました。
しかし外では
「待望の女の子だったし、一人娘だから可愛い」
とベタ褒め。
「家ではブスという。でも外ではかわいいという」
その二面性に困惑しましたが
「きっと家の方が本当の母親の意見なんだろうな」
と解釈し、
「自分はブスだ」と疑わなかったし、
哀しいとも悔しいとも思わず、
言葉のまま受け取ってたのです。
「私はブスに生まれてしまったんだな」
母は自分のことを「若い頃は皇后さまに似ていた」
と『美人』を誇らしげに言ってくるので
「美人の母に似なくてごめんなさい」
「ブスであることは自分でもどうしようもない」
小さいながらそう考え、
悲しむことも反論することもせずに
諦めていました。
その証拠に小さい頃の私は
笑顔の写真が1枚もありません。
ムスっとした表情ばかりで、
目つきの悪い怒ったような女の子。
母には冷たくあしらわれ、
抱っこをしてもらった覚えすらなく、
甘えた記憶もありません。
「お母さん、なんか寂しい・・・」と言っても
「なにそれ」と一言言われて終わり。
それでも私にとって、「母親」がすべてで、
母親に見捨てられたら終わりだと思っていました。
【恐怖】性被害にあった小学生時代
小学校は母親が勝手に決めた
家から遠い学校に通わされました。
幼稚園からの親友とも
離れることとなり、
バスを乗り継いで
全く知らない人達の中へ放り込まれました。
それでも母親が全てだった私は
文句ひとつ言わずに通学。
近所に友達がいない私は、
小学4年生になったある日の休日、
ハムスターを連れて近所の公園へ一人遊びへ。
公園のクローバーが一面に広がっている空間で、
一人の世界に浸りハムスターを放して
散歩させるようにして一緒に遊んでいました。
どこからともなく一人の男の子がやってきて、
とてもやさしい笑顔で
「おうちどこ~?」
「何年生~?」
と気さくに話しかけてくれました。
話してみるととてもいい人で、
1歳年上の小学5年生。
友達のいなかった私は
優しくしてくれるお兄ちゃんに
すぐ気を許し、
「うん、あのマンションより向こうだよ!」
と楽しくいろんなことを話してました。
そうするとお兄ちゃんは突然、
「この間さ、近所の中学生たちがここの公園のトイレにお金を隠してたよ!」
と言ってきたのです。
「ふぅ~ん…」
全くお金に興味がなかった私は
気の無い返事をしていました。
でもお兄ちゃんは
「ねえねえ、見てみようよ〜」
としつこく言うので、
「わかった、行こうか・・・」
とハムスターを手提げ袋に入れて、
私たちはトイレへ向かったのです。
そこのトイレは、
1つしかない個室タイプのトイレで
「だれか来たら困るからね、お金出てきたら取られちゃうし、カギを閉めるよ!」
と2人でトイレへ。
カチャリとカギが閉められた途端、
私の後ろにいた男の子は
私を羽交い絞めにして、
「はは、お金なんてうそだよ!ちょっとおっぱいさわらせてよ」
といきなり触ってきたのです!
一気に恐怖におそわれて、
「きゃー!!!!」
と大声を出して
パニックになりながら
カギを一生懸命こじ開け
「ハムスターがハムスターが!」
と訳のわからないことを口走り泣きながら
家へ逃げ帰りました。
家へ帰ると母が台所にいたのですが、
私は恥ずかしさ、惨めさ、くやしさや悲しさでパニック。
普通なら母の元へ行くと思いますが、
なぐさめたり、
かばってくれたりした経験が無かったため、
母に助けを求めることができなくなっていました。
冷静にハムスターをケージに戻し、
それから一人で身を縮め
自分の中でどう扱っていいのか分からない黒い塊を喉に
ずっと詰まらせているような感覚のまま
膝を抱えて数時間。
「どうして騙されてしまったのか」
「優しかった男の子がどうして豹変したのか」
自分には処理しきれないことが
たくさんありました。
もうどうしようもなく怖すぎて
身体が痙攣し始めた頃やっと
「お母さんに相談して、助けてもらおう」
と思い立ったのです。
きっと
「そんなことがあったの!?かわいそうに、大変だったね。
大丈夫?つらくない?
今度1人で公園に行くのは危ないからね。お母さんと居ようね。」
と優しい言葉をかけてくれるはず。
そう期待して母の元へ行き、
私は意を決して口にしました。
「お母さん、わたし…公園で知らない男の子にトイレに閉じ込められて、『おっぱいさわらせろ』っていわれて…」
全部言い終わらない矢先に母は、
『ぶははは!そんな無い胸を触ろうとしたの~~~?』
と上からあざけ笑い立ち去ってしまったのです。
「・・・・・」
私は、何が起こったのか分かりませんでした。
男の子に騙された、母にバカにされた、
胸がないのに触られそうになったのは
「全て自分が悪かったんだな」
と答えを出すことしか
自分を納得させることができませんでした。
「母に慰めてもらおうと思っていた自分が間違っていたんだ…。」
公園に行くのが怖くなった私は
1人きりになるのも怖く、
近所の文具店へ行くようになりました。
デザインの良い文具を見るのが
楽しくて楽しくて
何時間も入り浸り見て回る日々。
お小遣いの範囲で
購入したこともありましたが
今度は「もったいない!」と
母親に平手でぶたれたこともありました。
「1人でおとなしく遊んでいても迷惑をかけてしまう。」
「母に見捨てられたら終わってしまう。ごめんなさい…。」
「なんて自分はいやしくて迷惑をかける存在なんだ…。」
その後も、スカートが怖くて履けない私に対して
「なんでそんな男子みたいな格好ばかりするの?ちっともかわいくない」
など怒られたりバカにされるたびに、
悪いことをしている自分を責め、
惨めさも感じていながら、
なんとか母親から見捨てられないように
必死な毎日を過ごしていました。
楽器のおかげで実家から解放される
中学3年の夏休みが終わるころ。
私はなんの目標もなく
進路に悩んでいました。
唯一続けていた吹奏楽。
中3の夏休み後に部活を引退後、
どうしても楽器をやめることが考えられず、
「ずっと続けたい」と切に願うようになったのです。
恩師が東京の音大に通っていたと聞き、
「私も東京にある音楽大学へ行きたい!」と思い立ち、
帰宅後に両親に相談してみることに。
「音楽大学の附属高校を受験したい!だめかな?」
「え!?・・・」
両親は言葉を失っていました。
しかし父が賛成で、母は猛反対。
私の中ではもう「受験すること」でアタマがいっぱいになって
脳内お花畑状態でした。
「楽器を一生続けたい」そこには光が射していたし、
身体がそこへ突き動かされていました。
「どうせバカにされる」「聞いてくれるわけがない」と諦めていたので、
私は普段、家族に頼み事はしませんでした。
わがままはたったの3度。
1つ目は、幼稚園のころにピアノを習いたいとお願いしたこと
2つ目は、犬を飼いたいとお願いしたこと
3つ目は、県外の高校受験をさせて欲しいと言ったこと
母親の反対を押し切って、
とにかく楽器を続けたい。
その一心で必死に勉強し、
県外の高校へ受験させてもらって無事合格。
初めて親元を離れて
寮生活を開始しました。
寂しいとか不安とか家から出られる解放感よりも、
とにかく音楽への期待が詰まっていました。
でも家を出て気づいたことが1つ。
あれだけ母親が全てだと思っていたにも関わらず、
母親のいない生活は本当に充実して
楽しいものだったのです。
男性恐怖症の克服
高校、大学と本当にいきいきとした
生活を送ることができました。
しかし、小学生の頃のトラウマもあり男性とは友達として会話はできたのですが、
恋愛となると怖さがあり恐怖症になっていました。
ある日、大学在学中に私の専攻している楽器の演奏会がありました。
演奏会後に打ち上げに成功を祝して乾杯。
その後、お酒に弱かった私は千鳥足で家に帰ったのです。
そうして1時間くらい経った時、同級生の男の子から電話が来たのです。
電話番号なんて教えていなかったはずなのになぜ?「あれ??どうして?」
と困惑していると、共通の友達に電話番号を聞いてからかけたというのです。
「酔っぱらってたから大丈夫かな?って心配で」
「へ??あ・・・ありがとう。心配かけてごめん。大丈夫、家に着いてるよ」
「あと1週間でクリスマじゃん?空いてたら食事でもしない?」
「え?!あ・・・空いてるけど・・・」
同級生の中では頼りになる人だと思っていた「音楽仲間」を、
急に少しだけ「異性」として意識してしまった瞬間でした。
男性が『恐怖の対象』だった私は、
音楽仲間だと思っていた垣根の低さから
食事に誘われたため、
「ごはんを食べるくらい、だれでもするか・・・」
と異性として見てもらえてないと思い、自信も無かったため
思い直し
「こんなブスな私でも誘ってくれるんだ、ありがとう」
と怖さよりも感謝の方が増して、その時は食事を楽しみました。
初めから男性として意識していなかったため会話は弾み、
男性は恐怖の対象じゃないと次第に思い直すことができたのです。
男性恐怖症を克服しなければいけないかなと思っていたこともあり、
あたたかな楽しい空気感に安心できたので
その同級生と私はお付き合いをすることになりました。
しかし、その後数年たった4年生の夏に突然私はフラれてしまいました。
後輩から告白されたらしい彼が、
私から後輩へ気持ちが動いたそうだと後で聞いたのです。
初めてお付き合いした人でしたし、
ずっと仲良しだと思い込んでいたので青天の霹靂。
私の専攻していた楽器は、オーケストラの中の一つなので、
私とその彼とその後輩とは毎日顔を合わす環境にいました。
「なんとも気まずい・・・」
本当は苦しくて、何も食べ物が喉を通らず、
大学にも行きたくなかったのですが
「フラれたみつは」をみんなに見せて心配されるよりも
「フラれても元気なみつは」をみんなに見せるほうが気持ちが楽だったのです。
相変わらず周りの人の目を気にして
自分の気持ちにはフタをして行動していた自分がいました。
大学を卒業する頃、まわりの楽器専攻の生徒は音楽で食べていくために
『フリーランス』の選択をしていました。
しかし私はそこまでの自信はなく、
就職活動をすることに決めたのです。
当然、東京で就職先を探していたのですが、
母から突然電話が来て
「帰ってきなさい」
と当たり前のように言われました。
高校から実家を出て7年。
本当に毎日が楽しかったので
正直母の元へ行くのはいやでした。
でも少しでも反抗しようものなら
パニックになってしまう母親だったので、
自分が大人しく帰った方が
すべての状況がおさまると思い
諦め半分で頷き実家へ。
母親は私にお見合いをさせることに
躍起になっていました。
母方の父が仲人業を精力的にしていたこともあり、
小さい頃からお見合いをする事が
私の家ではまかり通っていたのです。
幼少期からの呪縛で
「母の言うことが全て」
と信じていたので、
失恋し心を痛めていたことと
また自分に自信がなくなっていたこともあり
何の疑問も持たずに
母がセッティングしたお見合いを
受け入れていました。
その都度母親が
「何も知らない情けない娘ですが・・・」
と言って紹介し、
恥ずかしく情けない思いで
いっぱいになり
俯くしかない毎日。
何度か東京と実家を行き来しながらお見合いをしたのですが、
どうしても私はそこから
「結婚」まで心が動きませんでした。
初めて一目ぼれをした社会人1年目
ある日、
「大きな音楽祭に演奏者として出ないか?」
と友人から誘いを受け
練習会場へ。
重いドアを開けた瞬間、私は一人の男性に目が留まったのです。
あれだけたくさんのお見合いをしてきたのに、
今まで感じたことのなかった高揚感を感じました。
どこかで会ったような安心感が
表情と佇まいからにじみ出ているような
温かみを感じる人だったのです!
そんな少しの高揚感を胸に抱きながら、
オーケストラの練習に臨み、
音だしをしていると、突然指揮者に
「君はどこのパートを吹いているんだね?」
と。
「いや、あの、まだ・・・友人に誘われて今日初めて来たばかりで、
どこを吹くとかはまだ決まってないのですが・・・。」
「そんなこといいからどこを吹きたいのか言いなさい」
「あ、いや他の方の邪魔をしないように相談してから決めたいと
思っているのですが・・・」
「他の人はどーーーでもいいんだよ!君がどこを『吹きたいか』って聞いてるんだ!!」
「はぃ・・・すみません・・・」
初めての場所で、初対面で、いきなり怒られたことへの
ショックと恥ずかしさでどうにかなりそうでした。
なにより、さっき気になっていた人の前で
こんな恥ずかしい姿をさらしてしまった事実に
消えてなくなりたいと思っていました。
「自分に自信がなくて、だめなやつ」
とずっと思って生活していたため、
『自分がどうしたいか』なんて考えずに生きてきたのです。
そのまま落ち込んで帰りました。
それでも私は音楽が大好きで、
音楽だけが自分を表現できる唯一の手段だと思っていたため、
怖い指揮者に「ビビってやめる」なんて選択肢はありませんでした。
それから何度か練習日が設けられていたのですが、
結局私は自分の希望のパートを吹けることとなり、
演奏する曲も大好きだったので、精一杯吹きました。
最初は苦手だった指揮者も、
偏屈だったり、言い方にトゲがあったりしたのですが、
本当は音楽家として、そして人として
『自己主張をすることの大事さ』を教えてくれる
素敵な人だと感じるまでになったのです。
それから私はこの指揮者を人として信頼し
主催するオーケストラに入り、
故郷と東京を行き来する生活をしました。
最初に大恥をかいたおかげで、
「自分を装う」必要が無くなったために、
気になっていた彼とはお昼時などで談笑する仲に。
素の私のまま
「もうどうにでもなれ」状態で話せていたことと、
オーケストラでの席も近かったこともあり、
プライベートで遊ぶまでになったのです。
彼は茶髪でラフな恰好で、
おまけにクマのように大きな身体だったので
「サーファーかな?」と思ったのですが、
実際は一つ年上の医学部の学生でした。
社会人として働きながら、
実家でお見合いをしなければならず、
辛い毎日が多かった自分にとって、
まだ学生で楽しそうな笑顔を絶やさない彼に
とても惹かれていきました。
遊ぶときも自然にドライブしにいったり、
おにぎりを持って海を見に行ったり、
山へ登ったりと
学生の頃へ戻ったような気持ちで解放されて
とても甘く楽しい日々を過ごせました。
恋人と実家
母には当然のように
「気になっている人がいる」
ということを伝えていました。
「ヘぇ〜どんな人?」と
母親はぶっきらぼうに言ってきましたが、
彼が医学部生ということ知った瞬間に
目の色を変えて
「そんなに素敵な人なら告白しなさい!」
と言ってきたのです。
正直、「放っておいて欲しい」という気持ちでしたが、
「母の言うことは全て正しい」という呪縛で
お互いの演奏会でデートしたりと交流を深め、
自然な流れで無事にお付き合いできることになりました。
母に報告すると、あれだけプッシュしてきたにも関わらず、
嬉しがる様子は一切ありませんでした。
しかも今度は、私が故郷から
離れて暮らすであろう未来の事を
なじってきたのです。
とはいえ、医学部生という将来の安定感を
確約されたステータスに
安心を覚えているようで、
母親なりに葛藤をしているように感じました。
恋愛と母親との関係性
結局、その後彼が就職で私のいた県から離れ、
遠距離恋愛をすることになってしまうのです。
私は結婚を焦ってはいなかったのですが、
母親が毎日のように
「結婚しないの?」
「結婚はいつなの?」
「いつまで独身でいるの?」
「婚期のがしたら困る」
と毎日のように言われ、
言っている母がノイローゼ気味になっていっているのに
恐怖すら感じていました。
そっと彼に結婚について話をしてみたところ、
彼はまだ就職したばかりで
「結婚する」ことまで考えられなかったようです。
「まだ結婚はできないよ」
とつぶやいていました。
彼から結婚を望まれていないことは悲しかったですし、
母からは毎日毎日結婚結婚と言われ、
その声にも応えられていない罪悪感で
私は自分が分からなくなってきたのです。
自分が結婚したいというよりは、
「この場から逃げ出したい」という気持ち。
だんだん私は
「結婚すれば幸せになれる」
と考えるようになったのです。
そんな悶々とした時期に
実家近くで私に思いを寄せてくれる男性が現れ
「結婚を前提に付き合ってくれ」
と突然告白されたのです。
母親から責め立てられる毎日に疲れ、
遠距離恋愛の儚さで自分が保てなくなっていた自分にとっては、
「地元で結婚できるかもしれない」
という誘惑は強いものでした。
しかし、
「自分ではこんな重大な決断はできない」
と、母に相談したり、
あろうことか彼氏にも
「求婚された」
と話をしてしまいました。
「自分の結婚相手を他人に判断してもらう」
私がいたのです・・・。
「結婚はまだ」と言っていた彼なのに、
静かに
「そうか・・・。じゃあ結婚するか」
と半ばそう言わせるしかない状況を作って、
結婚をするに至りました。
そうして彼のいる他県へ行き
結婚生活開始。
不安は一切なく、
実家にいるよりは
上手く生活していける自信がありました。
しかし、結婚して3日目の事。
勤務から帰ってきた夫は
ものすごく怖い顔をして帰ってきました。
初めて会った時にみた、
あんなにも素敵な笑顔は、
一切無くなっていたのです・・・。
怖い顔を見たくなかった私は、
母親に怒られないようにする子どものように、
「おかえり~!」
「・・・」
「今日はね、みつはの得意料理だよ!多分おいしい笑」
「・・・」
「具合悪い?」
「いや・・・」
こんな風におどけた態度で機嫌を取っていました。
そうすると1時間くらいして
彼はいつも通りの機嫌に戻ってきました。
夫の機嫌取りが日常化し、
自分の弱音を正直に話せない苦しみから
夫が家にいない時間に、
パソコンのチャットで
遠く離れた人達と繋がれる会話に
のめり込むようになりました。
オンタイムで知らない人と
会話をすることが刺激的で、
学生、社会人、主婦、全国各地
いろいろな人と垣根を無く話せるのです。
知らない人と話すことで
輪が広がるのは本当に楽しかったですし、
ストレスを吐き出す場所の
大事さを痛感しました。
結婚、妊娠、そして…
結婚して半年。
夫とは相変わらず
機嫌取りをするような関係のまま、
私は妊娠しました。
妊娠をチャットのみんなに報告すると
「おめでとう!」
と言われる瞬間の嬉しさはたまらなく幸福度が高いものでした。
通院先の病院は夫の勤務している病院でもあったので、
夫が立ち会ってくれる安心感と、純粋に
「赤ちゃんと会えるのが楽しみ」
そう思っていました。
数週後。
いつも通りの検診を受けていると
突然お医者さんから
「赤ちゃんの心音が聞こえません」
「残念ながら流産してます」
と告げられました。
「え、、、、」
その日のうちに手術が予定され、
「我が子が自分のお腹からいなくなってしまう」
という衝撃で何も考えられませんでした。
院内にいるはずの夫はというと、
一度も顔を見せることはありませんでした。
とりあえず母へは連絡し、
チャットのみんなにもすぐさま打ち明けました。
みんなは励ましてくれたり、
温かい言葉をくれたので、
少しだけ救われた気持ちになりました。
そして午後の遅い時間に手術が終わり、
看護師さんが声をかけてくださいました。
「おひとりで帰れますか?」と。
おなかが痛むので普通に
歩けませんでしたが、
これは案に「帰ってね」
ということなんだと思い
「ありがとうございました」とお礼を言い、
病院の少し暗くなった長い廊下を
バーを伝いながらソロソロと歩いて帰りました。
部屋に無事たどり着き、
部屋で一人になってへたりこんでいた時。
勤務を終えて夫が帰ってきました。
へたりこんでいる私をみて開口一番
「ごはんどうするの?」
と言いました。
夫には、手術したことは伝わっているはずなのに・・・。
判断力を失ったアタマで
何も考えられていなかったのですが、
その一言で愕然としてしまったのです。
『・・・(こんな状況になってもごはんの心配…。)』
言葉にできず、それを飲み込みかろうじて言葉を探し
「痛くて作れそうにないから外食でいい?」
そのあとの外食も身体がつらかったのですが、
さっきの言葉が痛く刺さっていました。
後日、母が様子を見にきてくれて、
「私も流産したことあるから気持ちは分かる」と。
「やっぱり母だけが私の理解者なんだな…」と思いました。
それから私は、
流産した悲しさや夫からの心ない一言から
『癒し』をくれる言葉を求めて
チャットのみんなと会話をする毎日を
過ごしていました。
なかには『自分も流産を経験しているよ』
と話しかけてくれて、
その後に仲良くなれた主婦さんもいました。
そしてその中で住職さんだという人と知り合い、
仲間数人と一緒に住職さんのお寺で「オフ会」が開かれ
アバターではないリアルな人達と繋がりました。
バーチャルからリアルへと友人の輪が広がり、
私は1年半くらいはチャットにのめり込み、
会話を楽しむ毎日を送ることになりました。
寂しさをまぎらわせていたのです。
その仮想空間はその後閉鎖されて、
だんだんツイッターなどに場所を移し、みんなの生活環境も変わり
繋がっている人とそうでない人で分かれていきました。
孤独感からの初めての出産
その4年後に一人目を無事妊娠しました。
出産時は回旋異常で緊急帝王切開を迎えたりしたので、またバタバタ。
母もその時にはいてくれたのですが、
翌日逃げるように帰ってしまいました。
「後は、入院だけだから私がいなくても大丈夫よね」と。
急遽入院した事もあったり、
初めての育児で不安だからこそ、
母親には、「今」一番いて欲しかったのですが・・・。
もちろん夫はこの時も顔を見せません。
赤ちゃんともしばらく会えず、
ただそこに寝ていなければならない恐怖と
おなかの痛みでなにもできず
起きることもできない状況で
涙ばかりが流れてくる入院生活でした。
10日くらいの入院生活後、
孫の顔を見に両親が実家から家に来ました。
家族の反応を見ると
「流産したのは本当に辛かったけど、今回は本当に無事に産まれてよかった」
と痛感しました。
そんなある時、
私と2人きりになった母が
突然言い出しました。
「実は前に”流産した”って言ってたけど、本当は中絶だったの」と。
4年前、流産した私に
「私もしたから分かるよ」
と言ってくれた言葉が実はウソ。
唯一救われた気持ちになり
「自分を理解してくれるのは母親だけだ」
と感じたあの声はニセモノだったのです。
「え・・・」としか言葉が出ませんでした。
私は、「なんで・・・」
と必死に声を絞り出し
理由を聞きました。
すると
「あの時はお父さんの事業が忙しくて、そうするしかなかった」と。
それが分かっていたなら
妊娠しない方法も取れたんじゃないかなど、
頭の中でいろいろな言葉が巡って
納得は出来ませんでした。
なにより
「私の流産と自分の意思で決めた中絶を一緒にしないで!」
と生まれて初めて
母親に対する怒りで身体が震えました。
母からの最大の裏切り
この出来事をきっかけに、
私は「こういう母親」に育てられたんだ
という絶望感で
諦めの境地に立っていたのです。
もうすべて済んでしまった事、
私は大人として
この状況を受け止めなければならない。
そして、今は母親に囚われずに
目の前にいる子供と
向き合わなければいけないと心を入れ替え
「母とは距離をとるようにしよう」と決めました。
それからの私は子供と穏やかに過ごし、
夫とも良好な関係を保つことに全力を注ぎ、
今まで以上に楽しく充実した日々を送ったのです。
娘はマイペースで大人しくてとてもかわいくて、
日々の成長を十分に楽しみました。
3年後には2人目も自然分娩で出産。
しかし産後は、
重度の貧血にさいなまれ生活は
フラフラ状態でした。
ガス欠の車に燃料は入れられずに彷徨う
2人目が生まれてからは
主婦業と子育てがのしかかり
毎日がだんだん苦行になっていきました。
2人目の男の子は非常にわんぱくで、
大人しかった娘も弟の行動に感化されたのか
急に活発になってきたのです。
私がトイレに入っている間に娘と弟が家から飛び出し、
北と南へ別々に逃げ出してしまい、
近所中を走り回ってご近所も巻き込み大捜索をした事もありました。
夫も忙しくワンオペ育児や貧血症状が長引いていたこともあり、
私の体力精神力はMP0となりました。
日々が許容範囲を超えて
いろいろなことがめまぐるしく起こり、
食欲不振になり、眠れなくなり、めまいもしてきて、
頭痛、胃腸の様子もおかしくなってきて、
よくわからない湿疹などもできて、、、
母との距離を取っていましたが、
布団から起き上がれなくなった時に
頼れる人もおらず、
子供たちの事を第一に考え、
ヘルプを頼み子供たちを見てもらう
決心をしたのです。
夫にも休日は子供たちを連れて
出かけてもらい休息をもらったりしましたが、
なかなか体調が良くなりませんでした。
その間も母には「夫に尽くせ」「我慢しろ」
「専業主婦でいられるんだから幸せなんだ」
と言われ続けました。
夫からは動けない私に対して
「育児くらいちゃんとやれよ」
と非難と怒りをぶつけてきました。
さらに母が手伝いに来てくれた時には
キッチンを無秩序にめちゃめちゃに使い、
私の洋服を着て、勝手にいろいろなモノを使っていました。
遠くまで来てもらい手伝いまで
お願いしている負い目もあり、
具合が悪いこともあって、
何も言えずに見ないふりを
してしまったのです。
しかし仕事から帰ってきた夫は
部屋がめちゃめちゃな事や、
「あるべき場所にモノがない!」
と私にあたり、
日頃の倍、怒るようになりました。
休息を取る目的が、
精神的にもっともっと
自分を追い込むことになってしまったのです。
「なんでこんな不甲斐ないんだろう」
「なにをしてもだめだ、上手くできない」
「だれにも分かってもらえない」
「むなしい」
「悲しい」
「もう生きる意味ってある?」
いつの間にか涙が流れたり、
胸が苦しくなったり
過呼吸になったり。
「居なくなりたい」
一人になった時に空を仰いで
天にお願いしたときさえありました。
「苦しいです。居なくなりたいです」
もうどうすればいいのか
分からなくなっていた私は、
10年以上前にチャットで出会った
住職の友人との楽しかったオフ会を思い出し、
藁をもすがる思いで
直接会いに行くことに決めたのでした。
孤独感という荒野の果てに行きついた場所
住職の友人とは、
知り合った当時から
お互いのダメなところをさらけ出して
笑い合う仲でした。
私は買い物依存症と仲間への愛着依存、
住職の友人はアルコール依存症と、
お互いの弱い部分をさらけ出しても
恥ずかしくない間柄です。
私が愚痴を言えば
「そりゃ、おめ~さんが相手を見る目がなかったんだよ」
「しかたねぇわな」などと、
辛口ながら決して私に同情する立場でもなく
第3者目線で物事を見て的確に、
そして江戸っ子口調で
痛いところも突いてくる人でした。
私はその歯に衣着せぬ言い回しが心地よく、
自分の事を笑い飛ばしてくれる
良き理解者だと思っていたので
「今度もまた笑い飛ばして元気づけてくれるかも」
という期待があったのです。
住職の友人に会いにいき、
今まで誰にも言えなかった
「何もやる気が起こらない」
「もう居なくなりたい」
ことを打ち明けました。
こんなどん底の今の私を笑い者として
どうオチをつけてくれるのかという期待があった私に
なんと第一声が
「今まで生きていてくれてありがとう。」
「死にたいと言っていても、君はこうして私に会いにここまで来た。
それだけで”本当は生きたい”って思っていることなんだよ」
その瞬間、私の理性はふっ飛びました。
『笑い飛ばしてくれるはずなのに!』
『江戸っ子口調でオチをつけて笑わせてくれるんじゃないの?!』
『なによ!「ありがとう」って!なんでよなんでよ!優しい言葉なんかかけないでよ!』
喉のところにいつも抑えつけていた
黒い塊が崩壊して、
全身から流れ出る感覚。
東京の有名なビアホールで
人目もはばからず
嗚咽してしまったのです。
「つらかったな。君はアダルトチルドレンかもしれない」
「いわゆる機能不全家族の中で育ったんだな。」
「親から”それじゃだめだ~”、”こうしておかないとだめだ~”と
言われ続けちまうと、自分ってものが表現できなくなって
次第に親の言うことだけを頼りにするようになるんだよ」
「小さい頃の自分なんてさ、親がすべてだからしょうがねぇよな。
親がいなくなったら生きていけねえって思うだろ?」
「まあ、ありのままの自分でいると愛されないと感じてさあ、
ず~っと寂しい気持ちを抱えて大人になってるわけだぁ。
だから俺たちみたいにその寂しさを何かで埋めるようになる。
これがアルコール依存だったり、買い物依存だったり、愛着依存だったりするんだ」
「最後にさあ、知っておいて欲しいんだけど。その毒親もさ、毒親に育てられたんだよ」
初めて聞く言葉ばかりでしたが、
私が毎日なんとなくつらく、
自分がダメな人間だと責め続け、自信もなく、
孤独だったことには原因があるんだ
ということをその時に知ったのでした。
友人の言葉を聞きながら、
母親を責める気持ちは
微塵も感じることはありませんでした。
「毒親」という原因を知っただけで、
私は救われたと思えたからです。
友人からはまず自分をいたわって、
自分に向けて
「毎日ありがとう」と
声をかけてあげてくれと
教えてもらいました。
奈落の底からの脱出
訳も分からず、
気恥ずかしいけれど
することはただ一つと心に決めました。
しかし、鏡に映った自分に
「ありがとう」とは、
なかなか言えませんでした。
恥ずかしさとむなしさで
心から言えなかったのです。
「なす術なし」の私はこれしかない!と
試しにやってみることに。
何日か経ったある日の朝、
鏡を見た時に
「今までありがとうね・・・」とつぶやいてみました。
そうすると自然と涙が出て
昔から苦しい時にできていた
喉元に引っかかっている黒い塊が
また口から出るような感覚があり、
そのまま大泣きに変わったのです。
「ごめんね、今までごめん。本当にありがとう」
と何回も何回も言い続けていました。
母や夫に本当にひどい扱いを受けていたことばかりが思い出され、
誰よりも自分が一番厳しく
自分をジャッジして
いじめていたことに気が付いたのです!
「なんて情けないんだ」
「こんなこともできないなんて」
「そんなんだからみんなに受け入れられないんだ」
「何をしてもダメだ」
「どうしようもないね・・・」
最初は母親から言われていた
こんなひどい発言を、
いつの間にか自分で自分に
言うようになってしまっていたのです。
また、
「アダルトチルドレンとなる子供は、
親と同じ扱いをしてくる配偶者を選ぶ傾向にある」
と後で知りました。
小言をいう夫を自分で見つけ出し、
それを長年「良し」としていた自分に
気が付いてしまったのです。
冷静に考えるとその関係が苦痛なら、
訴えればいいだけ。
夫の態度は、
母の言いなりになっている私の態度を見て、
「そこまで言っても大丈夫なんだ」
と判断した結果だったのかもしれません。
自分で自分を嫌い、さげすみ、毎日毎日怒り続け、
がんばろうと這い上がろうと覚悟しても
「どうせだめだろう?やったって無駄だ」
と過去の母親のように
自分自身に向けて呪いを
かけていたのでした。
自分自身に対して「ありがとう。」
ということでその呪いから
徐々に解放されるのを感じました。
私はアダルトチルドレン。
母は毒親。
そう知ってからは、
冷静に母親の事を見られるようになりました。
母親が私に対して
「かわいくない」や「頭が悪い」
などの言葉を言うのは、
母親も自分の親から
簡単に言われていたからなのではと思います。
事実、祖母は、
昔から孫の私にも冷たかったのです。
老人性痴呆症になり
入院していた祖母のところに
私が結婚報告をすると、一言。
「あんたには過ぎた人だよ」
と、厭らしくニタリと笑いました。
夫になる彼には会わせたことがなかったので、
きっと「医師」という職業からの判断でしょう。
私は母親より恐ろしい陰湿な空気を察知し、
何も言えずに黙るしかありませんでした。
肩書きだけで判断する価値観や
その発言で私がどう感じるかなど
何も考えていない祖母の考え方は
母と同じ匂いを感じたのです。
ホームドラマのようなおばあちゃんのように「おめでとう!良かったね~」
なんて絶対に言わない祖母。
この祖母に育てられたから、
あの母になったんだろうなあと
今なら理解できます。
そんな母親の背景に目を向けて
冷静に考えられると、
感情に流されること無く、
振り回されること無く
母と対峙することができました。
そして驚いたことに
母親に従うことしかできていなかった自分が
反論を言えるようにもなったのです。
例えば、「娘の大学受験」の時。母が、
「まぁ、女の子なんだからそんなに躍起にならなくてもいいのよ。
どうせ結婚しちゃえば職業なんてどうでもいいんだし」
と言ってきたので、
「今はそういう時代じゃないし、
1人で男性に頼らずに生きていけるようになったほうがいい。
彼女自身の生きがいとしての仕事の選択なら応援したいしね。」
「それに、もし結婚したとしても専業主婦だったことで
『従うしかない』選択肢しかない状態が幸せではないからね。
話し合いができるような対等な自尊心は持っていて欲しい」
と真っすぐ母の目を見て言えたのです。
反論したところで母親の考えや価値観、
私への接し方は変わりませんでしたが、
「母の言いなりになっていない」
という自分自身の大きな変化を感じつつ、
毎日鏡に向かい
今までの自分とこれからの自分に
「ありがとう」と言い続け、
「頑張ったね、えらいよ」
とねぎらいの言葉もかけ続けました。
家庭という機能が正常に戻ってきた
(スキーができるまでに体力回復!)
そうするとあんなに大変だと思っていた
子育てが精神的につらくなくなりました。
頭ごなしに子供たちを叱ることも無くなり、
子供たちも今までのように大騒ぎせず、
無茶をしないようになってくれたのです。
自分をいたわるようになると同時に
他人も大事にできるようになりました。
気持ちの余裕ができていたおかげで
めまいや食欲不振、睡眠障害も、
薬を使わず穏やかに治っていったのです。
PMS(月経前症候群)の症状もひどかったのですが、
こちらの症状も自然と緩和。
自分自身が感じていた細かな身体の不調が
改善されていったことも
本当に不思議でした。
身体が動くようになってくると
「夫から小言を言われないようにするにはどうしたらいいか?」
と考え、オーバーワークになっていた家事を
どうにかしてシンプルにできないかと
本で調べ始めました。
家事を理論的に考え
効率化を図るものや収納術、
片付けの本など読み漁ったのです。
そんな時に『断捨離』
と書かれた本に目が留まりました。
(私が初めて出会った断捨離本です!)
その本は、
断捨離前と断捨離後の部屋の様子が
写真付きで載っていて
部屋のモノの少なさに
衝撃を受けたのです。
『これだ!これが私の理想の部屋!!』
ごちゃついた自分の身の周りにある
「モノ」が一気に目障りに感じて、
今自分が住んでいる家で
モデルルームのような部屋を実現できる!
と載っていたその本を即購入。
頭の中のモヤが晴れ渡っていくようで、
私は足早に家に向かいました。
幸せホルモンは自分で作れる!
『断捨離』の本に出会ってからの私は、
モノを一気に減らし始めました。
そうするともっと身体が
軽くなっていくのを感じました。
断捨離は、身の周りのいらないモノを
自らの判断でコントロールして
快適な空間を作り上げていく作業なので
自己肯定感を上げやすく、
視覚的にも分かりやすく、
「成功体験」につながりやすいのです。
こうして断捨離に出会った私は、
朝を迎えることが楽しくなっていきました。
まずは「要るモノ・要らないモノ・保留」
に分けて、「要らないモノ」を捨てる、譲る、売る作業。
見える範囲のモノが無くなり
スッキリしてくるとさらに片づけたくなり、
「要らないモノ」を仕分ける場所と
その日実際に「仕分けできた事」
を書き出す作業。
次の日に
『するべきことが決まっている』ことが楽しくて、
いきがいのようになっていきました。
(実際に私が1か月かけて実行していた表です)
そして、断捨離を突き詰めていくと、
モノが減るので家事はしやすくなっていき、
「やるべきタスク」が
減って行くことを
実感していったのです。
例えば机のモノを
「片づけてから拭いていた」
日常から
モノのない机の上を
「拭く」だけになったり、
洗濯する量が減ったので
干す時間、畳む時間、
アイロンがけの時間が大幅に減りました。
モノが減ると少し汚れたところが
目に留まるようになり、
結果的に前より掃除を
こまめにするようになりました。
モノが少ないために掃除も
「モノをどかしながら」という作業が減り
快適に全面を綺麗に
短時間でできるようになりました。
今では、季節の衣替えと
年末の大掃除もする必要がなくなり、
何か月に1度の「中掃除」
くらいで大掃除の代わりができるのです。
成功体験が増え、
家事も余裕をもってこなせるようになり、
時間も余るようになっていき、
心に余裕ができました。
私は小学校時代からモノを増やすことが
生きがいだったのですが
それは
「寂しい、悲しい、満たされない心の隙間をモノで一生懸命埋めていた」のです。
そう気づいてから
買い物の回数も大幅に減り、
必要なモノができた時はネット通販ではなく、
しっかり手に取り実用的か判断してから
購入するスタイルに変わりました。
断捨離のおかげで順調な生活が戻ってきていた頃。
少し喉に違和感があったため病院を受診しました。
すると「甲状腺腫」という病気が判明。
「大きくなりつつあるので切除しましょう」
となり、簡単な手術に至りました。
しかし、検体の検査結果で
なんと「ガン」が見つかったのです。
今までだったら
「ガンになってしまった。居なくなりたいと願ったからだ。
そうだよね、当然の流れだよね」
などとネガティブな考えのまま受け入れ、
何も楽しみがなく絶望した
生活を送っていたことでしょう。
しかしその時の私は、
「ガンだったのか」
という驚きはありましたが、
体調が良かったので
「これからの生活を改めよう!第2の人生スタートだ!」
とポジティブに受け止められたのです。
ガンという診断後、
私はもっともっと自分を
身軽にしておこうと思い立ちました。
「死」を意識したためです。
今こうして寝て起きられること、
食べ物がおいしく食べられること、家族と一緒にいられること。
雨露をしのげる住まいがあること、
音楽があること、
匂いをかんじられること。
「疲れた~」とお風呂でリラックスできること、
全てが「有難く幸せなことだった」ことに気が付き、
1日1日を
「大切に丁寧に生きていたい」
と心新たに再出発できたのです。
今は、元気に暮らせています。
今は定期的に検査だけしている状態です。
ガンも落ち着き、体調が整い、
綺麗になっていく部屋を見て、
だんだん心まで整ってきたのを感じました。
そうすると次第に、
身体を動かしたくなってきて、
「ヨガ」を始めることにしました。
元来激しい運動はあまり好きではなかったので、
静かに動いているように感じたヨガに目が留まり、
その場で地域のコミュニティーセンターで
紹介されていた講座へ問い合わせてみました。
初めて会った先生はお優しい方で、
私はすぐに「通う!」と決めたのです。
ちょっと前の私なら
「ヨガに通う」
という心の余裕すらなかったですし、
知らないコミュニティーへ
自分から積極的に電話までして
お願いする行動力も無かったと思います。
1回目は体験授業でしたが、
私は心も身体も身軽になっていたこともあり
「通います!これからよろしくお願いします!」
とお願いしていました。
ヨガでは毎回、
瞑想を初めと終わりに数分行うのですが、
これが本当に気持ち良いのです。
心と身体が穏やかになっていくのを実感しました。
レッスン終わりには
いつも呼吸がゆっくりと
深くできるようになります。
初めは夫に「部屋が汚い」「子供がうるさい」
と怒られることにくよくよしたり、
母親からの電話やLINEで
ざわざわしていた気持ちがあったのですが、
週1回のレッスンで自分でも
驚くほどおだやかな気持ちで
対応できるようになったのです。
その頃に「アドラー心理学」
という本を読み、
「怒る人は本音では爆発したくて怒ることができる事象を探して八当たりしている」
と知りました。
「なるほどそうかもしれない」
と私が悪いわけではなかったんだ
という思考になれたのです。
自分で自分を苦しめる思考はやめました。
さらに、自己肯定感が上がり
「健康的に痩せたい!」と思い、
タンパク質を多く摂り、
白米を取らずに
低糖質の食事に変え
中盤にファスティングを3日間行い、
1ヶ月で5キロのダイエットに成功しました。
ヨガを始めても
数年は痩せなかったので、
この成功体験はまた1歩
自己肯定感をあげる結果になりました。
さらにさらに時間と心の余裕を感じた私は、
何か在宅で仕事ができないかと
SNSで情報を探しました。
SNSで出会ったYさんに
ブログの記事を書くライターというお仕事を
教えていただくと
翌月には収入を得るまでになったのです!
まさかの展開に、
本当にうれしくて今では私のように
「生きにくい」と考えている人に
毎日ごきげんで暮らすノウハウを
SNSやブログで発信したいと思いました。
私が住職の友達に救われたように。
たった1人との出会いで
こんなにも人生は変わるんだよ、
と伝えられるように発信しています。
「なす術なし」の状態から
前向きに自己肯定感をあげて、
今は「ごきげん」に
自分をコントロールできるようになりました。
毒親育ちだと
私のようにマイナスからの
スタートだと思います。
私は病院で処方された
薬が合わなかったので
遠回りをしてしまったのかもしれませんが、
穏やかに自分のちからで
『ごきげんを作ってきた』経験を
今、悩んでいる
あなたのお手伝いができるといいな
と、このブログで伝えたいと思い始めました。
「居なくなりたい」と空を仰いで
願っているほどだった私ですが、
今は生きていて良かったことを
本当に感謝しながら暮らしています。
どんな人でも幸せに暮らしていく道はあります!
自分で何も判断できずに周りに流され、
「居なくなりたい」とまで思ってしまった私でも
「自分で楽しくごきげんに」
までなれたのです!
どんな人でも楽しくなれる術はある。
自分を信じて
少しの勇気を出して動いてみてください。
そのお手伝いをさせてくださいね。